按配とは、「ちょうど良い加減」いったものでしょうか。
お菓子は時事刻々と生きています。それは作り手としてしみじみと感じる思いがあります。
冬の生地と夏の生地では、同じ配合でも柔らかさが違います。それを同じ按配にもっていくのが、職人の職人たる所以でしょうか。 手触りや感覚は、やはり永年の経験に基づいたものです。極端に堅くすると粉が入り過ぎて美味しくなくなるし、柔らかいままだと、生地がだれてしまい見た目も悪くなります。
「按配」とは、手づくりなくして成し得ない技術と言ってもいいのです。
日本の四季は、まことに見事なものです。
地球の機軸には傾斜があり、少し斜めに回っているために、日本には美しい四季が現れています。冬は極寒地帯があれば、夏は猛暑のところありで、その過程での自然が想像力をかきたててくれます。
この溢れ出す想像力からお菓子は生まれます。
自然は、春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ、冬から春へと、様々な農作物を育み、色合いと風情をかもし出してくれます。 緑と清流の町、西脇市に生まれた私は、その風光明媚な空間を愛して止みません。この自然なくしては、お菓子は生まれないのです。
当店では、可能な限り地産地消を目指しています。
ただ、仕入れに無理があるものに関しては、他県の良質の材料を選んでいます。
小豆は北海道帯広産大納言小豆を使用。その筋では最高級品です。
餅粉や米粉は、地元の材料さんに地元の粉を挽いてもらっています。
葛粉は、奈良県吉野の随一本葛。黄粉は京都産の大豆を挽いています。
その他、様々な材料を仕入れていますが、とにかく「良質」な材料を選ぶ、これが、生地の伸び、弾力、しとり感、もちもち感、などを限りなく高めてくれます。
より美味しいお菓子を作るためには良質な材料は不可欠な要素であります。
和の心を失わず、洋の能力も生かしていこうという思い。
それは、「味」と「技術」の、両面から語らなければなりません。
「味」という観点でいえば、お菓子には、和菓子、洋菓子、駄菓子ありで、美味しいものは洋の東西を問わず、世界中に存在します。 例えば、その「和」と「洋」を組み合わせたときに、今までなかった味を発見する ことがあります。そこには無限に近いアイテムが存在し、様々なバラエティを生み出してくれます。
近年でいえば、いちご大福なども、従来、和菓子の世界では決して使うことのなかった「苺」という食材を、大福餅に融合させたことは、まさに和魂洋才の妙味であり、この未知なる融合こそ、和菓子がもつ無限の可能性を再発見させてくれたものです。
近年では、チーズ饅頭や、月の子、まどか等も、それらの組み合わせによって生まれたお菓子です。
さらに「技術」の観点から言えば、和菓子とは、総合芸術だと私は思っています。
生地があって、内包材があり、それを包んで、焼いたり、焚いたり、蒸したり、様々な作為のなかで、生まれてきます。 それを包装資材で包み、可愛らしいネーミングをつけて、初めてお客様のお手元にお届け出来るのです。
そのなかには、「和」だけに囚われていては、生み出せない要素が無限にあります。
「形」、「包み方」、「ネーミング」等は、「洋」の才を大いに生かしていかなければ本物を生み出せないでしょう。
その逆もまた然りで、「洋」の味を持つものに対しては、「和」を 生かしていこうと考えています。
「和魂洋才」とは、常に新しいものを作り出すための、まさに想像と発見であります。
和菓子の世界に新風を吹き込むため日夜、努力精進するものです。
この一体感を生み出す為には、餡の「糖度」が重要な鍵を握っています。
「餡」とは、生餡と砂糖と水分の三つで構成されています。簡単にいえば、これらを熱によって固めたものが餡なのです。餡になってしまうと水分と言っても、糖度を含んだ水分となります。饅頭の皮は、この糖度を含んだ水分を吸収しています。
これが、皮のしっとり感を生んでいるのです。皮は少しずつ餡の水分を吸収して自らの味を調整していきます。また餡は、皮に水分を持っていかれるため、幾分か、自らのしっとり感が損なわされる恐れを感じています。
従って、ここで作り手は、しっかりした糖度を持った餡を炊かなければいけないのです。
必要以上に多く砂糖を使用すると、極端に甘いお菓子になってしまい、また極端に砂糖が少なすぎると、饅頭皮の水分移行が進みすぎて、皮と餡が分離してしまい、皮の中で餡が踊っているような饅頭になってしまいます。
餡の糖度は、お菓子によって全く違います。様々な要素を含んでいます。 塩や水飴を併用する場合もあり、堅さ、柔らかさもマチマチです。
それは、私共の生涯の課題であり、一生勉強と言っても過言ではないのです。
お菓子が生きているというのは、このように日夜、自らが美味しくなりたいと自らで変化させていく姿をいいます。
私共は、そのように饅頭が生きていく様を手助けしながら、生涯学習を続けているのです。